DICOM/歴史

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DICOMの歴史について概略を記述する。 正しく修正して欲しい。

なお、正式な規格名は「DICOM 3.0」である。

20世紀[編集]

20世紀の医用画像業界は大手モダリティメーカーによる支配下にあった。大手モダリティメーカーによる独自規格が乱立し、メーカー間どころか、自社システム間ですら他部署が作ったので互換性がないという状況で、何かしらのシステムを導入するたびに大規模な相互接続システムの開発が行われていた。

ここ最近の無名フリーソフトにも遙かに劣る今では考えられないほどショボいスタンドアローンの医用画像ワークステーション(医用画像ビューア専用パソコン)ですら1台1億円を越え、その医用画像ビューアで見るためにモダリティ機器からフロッピーディスクに画像データを書き出すシステムも特注開発で1モダリティあたり数千万円という恐ろしい世界が出来上がっていた。

メーカーにしてみれば、それはユーザーの囲い込みであり、一度導入されてしまえば他社への乗り換えは事実上不可能、かつ何かしらを導入するたびに大規模な連携システムの開発が行われ、莫大な金が動く非常に儲かる商売であり、当然その利権を手放そうとはせず、その混沌は日々加速していった。

革命前夜[編集]

その混沌とした医用画像業界に終止符を打つべく、米国放射線学会 (ACR) が主導し、1981年から医用画像フォーマットの標準化を目指す医用画像規格の開発が始められた。

ただ、ACRは放射線科医を中心とする利用者側の団体であり、単独で発表したところで、利権に塗れた世界中のメーカーの連合などに潰されてしまうのは目に見えていた。

そこでACRは北米電子機器工業会 (NEMA)の助けを借り、ACR-NEMA 1.0を1985年に発表、続けてACR-NEMA 2.0を1988年発表した。この時点では世界が動くことはなかったが、生き残った。

DICOM 3.0[編集]

その後、1992年の北米放射線学会でDICOM3.0を大々的に発表したのを切っ掛けに一気に流れが変わった。この時点でも大手モダリティメーカーを動かすことは出来なかったが、その存在が一気に世界中の医療従事者に知られることとなった。欧州を中心としたフリーソフトOsirisの登場や、日本におけるJ-MAC SYSTEMの登場と低価格市場の開拓など、大きな波が生まれようとしていた。

この際、ACR-NEMA 2.0から仕様が劇的に大規模化したことを受け、ACR-NEMA 3.0からDICOM 3.0 (1993年)と名称変更された。また、併せて新たにDICOM Standards Committeeという団体が設立され、規格制定および追加・変更はそちらに移管された。

なお、1993年のDICOM 3.0の制定から規格変更が行われていないわけではなく、以降はDICOM 3.0 2009などと改訂年度が末尾に付くようになった。改訂に際しては「廃止」と「追加」のみが行われており、「変更」は行われていない。このため、DICOM規格の改定が行われても、既存システムに影響が出ることはなく、その時点での適合性宣言書 (コンフォーマンス・ステートメント)の改訂を必要としない。ただし、希に例外的な改変があるので注意が必要である。

世界標準[編集]

本当の意味でDICOMが世界を動かしたのは2003年3月23日の出来事である。

2003年3月23日、米国政府は以下のような発表を行った。[1]

この命令は即日発効である。
すべての連邦機関は次の規格を採用しなければならない。

Digital Imaging and COmmunication in Medicine、DICOM。

これは医療に関わるデジタル画像と診断情報を、さまざまなメーカーのデバイスや、
医療スタッフの使うワークステーションから検索および取得を可能にするものである。

「世界最大の市場である米国で商売したければ必ずDICOMに準拠しろ」という命令が発効されたのである。 大手モダリティメーカーも動かないわけには行かなくなった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]